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忆往事——宫崎市定与黃现璠

忆往事——宫崎市定与黃现璠

原作者:历史的观察者(歴史の観察者)

译者:吉田茂树


笔者近日在日本著名网站“日本文化放送”(樱)「日本文化チャンネル桜 」上读到一长篇回忆录《战争的时代》(『戦争の時代』),文中回忆了有关中国学者黃现璠与日本学者宫崎市定的一些往事,读来感觉有点文史价值,特此摘译相关部分成中文,译文后附以笔者对内容的小考,以供从事中日文化交流的学者们参考。

我进入中国大陆之前,既获得了原陆軍的高嶋辰彦少将、原海軍的保科善四郎先生和福田良三中将以及福留守等先生写的介绍信,还持有森徳治少将和金子繁治少将写给中国友人的亲笔介绍信。同时,又拿到了水交会的山梨勝之进先生写给他的中国友人“○○亲启”(说出姓名后认识的人一定知道)的介绍信……。

除军人关系外,我还从宮崎市定先生处拿到了他写给中国学友黃现璠先生的介绍信。

我至今仍记得当时在宮崎教研室里向宫崎市定先生请教历史问题的情景。古代中国的周边民族(称为汉民族的原型适当吧?),即司马迁的《史记》中记载的华夏以外区域的粤、滇、氐、羌、閩、越等国,相当于现在中国的青海省、四川省、贵州省、云南省、广东省、福建省、广西壮族自治区、台湾岛、海南省。

按《史记・五帝本纪》所载:三苗、九苗、百越的追放地为天下蛮荒之地。事实上大致相当于今天湖南省、江西省、浙江省的古楚之地应划入蛮荒之地。这是因为当时的楚王自己曾说过“联自身系蛮夷末代,没有得到周的封候,从而成为了楚之王。”但是,《史记・楚世家》则记有“楚以顓頊(黄帝之孙)世家第6代季连为始祖”一事。在宮崎教研室中,有一位从南昌逃往台湾的中华民国留学生Y君,自称是战国末期楚国大诗人屈原先生的后裔子孙。无论从任何方面看,都不能说Y君是南蛮魁夷。

我就有别于华夏以外的这些古代南蛮民族史方面存在的疑惑向宮崎先生请教时,宮崎市定先生笑着回答说:“这种事情对日本人而言是很难明白的……即便今日有名的长江文明,当时也不过相当于日本古人说的高天原程度,不,应该说是相当于古代日本豊葦原瑞穂国的状况。你去中国时,我介绍一位良师益友绐你。”

宫崎市定先生介绍给我的中国良师益友,名叫黃现璠,一位著名的中国历史学家。黃现璠先生执教于广西大学,主要从事魏晋南北朝史、隋唐五代史、中国文化史等中国古代史的专门研究,尤以南方少数民族研究权威享誉学界,名播东瀛……这与专门从事中国古代都市的民众生活、都市民的征兵和纳税等研究的宮崎市定先生的东洋史专攻同符合契。

我对中国史的了解虽然如同门外汉,但是对历史一贯抱有浓厚兴趣。正因如此,20世纪60年代当然知道在中国非常著名的黄現璠先生大名。他曾任过北京师范大学研究院的史料编纂员,中日大战前来日,留学于东大(东京大学简称)。黃现璠先生属白鸟库吉、津田左右吉、原田淑人等学系的东大学阀一路……而宮崎市定先生则属内藤湖南、桑原隲藏、羽田亨学系的京大(京都大学简称)学阀一路……。我原以为两者没有学术接点,这种认识源于受到日本巷间广为流传的充满逸话的“东大与京大对立说”的影响……实际上,学问世界绝非是我等平凡人所想象的那种争权夺利分庭抗礼的下里巴人世俗世界,而属一个高尚又深奥的阳春白雪世界……宮崎市定先生与黃现璠先生两人生前都没有告诉我他们曾在何地亲密无间高谈阔论学术,作为愚弟子的我接受宫崎市定先生介绍如此名高于世的黃现璠先生时居然没有问及此事,今天想来深感大耻,高尚的两位先生想必会宽恕愚弟子。世间的学人虽然已无法得知宮崎先生与黄現璠先生生前的学术交流逸史,但我想两位先生生前友谊一定十分亲密……。啊,这只是一个轻率男人的想像。

1932年,“一·二八”事变(日本方面称为上海事变或第一次上海事变、淞沪战争)发生后,宮崎先生应召入伍。1933年退伍回国,返回京大。两年后,黃现璠先生进入东大留学两年,随后回国,成为国立广西大学史学讲师,讲授中国通史。不管怎样,我推测:在黃现璠先生留日这两年间,宮崎市定先生与黃现璠先生必定在何处见过面。

宫崎市定先生于这一时期相继发表了《古代支那賦税制度》(1933)、《支那城郭之起源异说》(1933),特别是1934年他发表的以中国古代都市国家为论述主题的《游侠论》大作,从而成为日本充满活力的少壮中国史专家。而充满活力的青年黃现璠氏则以研究中国上古代史、都市国家的军制研究为专门。两人的学术研必定在某些地方有共同之处。我认为两位先生绝非相识于战后,而是在战前成为学友。

1963年9月我随冈崎(冈崎嘉平太)访中团访中时从宮崎市定先生拿到的介绍信,抵中国后没有派上用场……主要原因是访中团规定严格,绝不容许访中团成员个人单独行动……。


本文作者于1963年9月16日随冈崎访中团访中时出席中方招待会

再说黃现璠先生,1957年或1958年,由于在毛泽东的第一次右派攻击中受到冲击牵连,被赶出历史学术界,不能滞在北京,被迫返回广西壮族自治区的南宁市图书馆,不,是广西大学图书馆,成为图书馆的一位管理员,处于难知外界事的状况。由此反而成全了先生能长期独自埋头于少数民族与壮族历史文化研究的美事。

1963年冈崎访中团抵中三个月后的12月,我约有一周时间在上海协助举办日本工业品展览会。好像是一周……,当时的日记后来被红卫兵抄家时烧毁了,具体是多长时间己无法记得……。同年返回日本的归途中,我与同行前辈A先生两人一道进入香港时,在广州与冈崎访中团一行(剩下3人在广州和香港休养4天)告别,从雷州半岛的湛江翻越十万大山脈,再沿右江进入了广西壮族自治区的南宁市。

对于这样的异国旅行,我没有多少恐惧担扰。因为在中学和大学时代,我便背着背包和睡袋独自放迹于日本山区四处旅游,时常在无人住的寺庙中过夜。当然,毋须忌言,旅行中偷食农田的西瓜和箩卜的坏事也曾干过。特别是我在香港工作时,曾与另一位同事经常赴新界地区的锦田、上水、勒马州、元郎等边境地带旅游,虽说是两人……但可说我已习惯于在异国四处旅游。

……我曾在香港努力学习了两年半,掌握了基本的中文日常会话,但听力较差。同行前辈A先生(比我年长4岁,在香港的亚洲研究中心工作)的中文很好。我们抵达南宁市后,住进了南宁饭店,马上休息。第二天天明,我赶往黃现璠先生处,A先生则前往中越交界的德天瀑布旅游……

通过电话与黃现璠先生取得联系后,随即报上宮崎市定先生的名字。我的中文发音极差,报上姓名深恐黃现璠先生听不懂……不料,对方传来流畅的日语“啊,是宮崎先生吗,想念您呀!”听后不安之扰烟飞云散。宮崎市定先生曾告诉过我,黃现璠氏的日语说得非常流利。当时我认为这或许得益于战前日本留学时代的环境……我的这种想法很快被证明是毫无根据的。

在广西的学校中,我与黃现璠先生的谈话皆使用日语。据说黃现璠先生曾在1953年、1954年访问中国的日本国会议员与中国外交部官员(陈毅与池田先生?)会谈时担当过翻译。黃现璠先生笑着告知我,1937年卢沟桥“七·七事变”归国后,仍不间断地读日文原著修习日语,所以日语流利。

黃现璠先生有留学日本的经历,战后又不断与日本史学家进行学术通信。作为中国史学界右派巨魁落马后而被放逐于史学界外的先生,毋须置疑,属中国学术界的亲日派分子。宮崎市定先生在写给黃现璠先生的介绍信中写有“拜托黃现璠先生出于日中友好目的而为派遣到中国的这位年轻人介绍一些适当的亲日中国人的关系”……等语。

……黃现璠当时自身受到处分(史学界右派),交谈时他告诉我目前只能在当地(広西壮族自治区以及周边省)一带活动,处于轻度软禁状态。尽管如此,他依然秘密地向我介绍了许多不知是他的弟子还是朋友的知识人(不限于史学界),如○○大学のM氏、○○大学のS氏、○○大学のH氏、○○大学のS氏等人。如今,这些人与我依然交往亲密,终身共享朋友之谊。他们来日本时多次在我位于关西的家中住宿。

……后来我又两次见到黃现璠先生。1965年,我利用休假,前往广西桂林、云南大理旅行时,曾专程在南宁停留,拜会黃现璠先生。他向我介绍了很多在北京、上海工作的有识之士……。第二次与黃现璠先生会面时,他带我参观了第一次见面时看过的一些名胜古迹,还去参观了钟乳洞和地底洞窟。当然,见面时我也将先生的弟子以及宮崎市定先生的信交给了黃现璠先生。作为一位外国旅行者,自然拥有充当信使的便利。考虑到当时黃现璠先生的处境,我没有与他在学术界的一些弟子见面。这次见面,我荣幸聆听到黃现璠先生对我详谈了有关壮族的历史文化。

由于这里不是历史论坛而是政治论坛,只得省略黃现璠先生的具体历史高论,跳过详情。有机会我将详细记述。……交谈中,我受到了黃现璠先生的一次教诲,这也是宮崎市定先生批评过我的教诲,即学习历史者,传承的历史与空想界限应该泾渭分明……而我对历史的认识,好像浪漫到已进入科幻领域(笑)。

……我过去在京都问过宮崎市定先生的问题,这次见面时同样向黄现璠先生问及,即广西的壮族在《春秋》和《史记》里已有记载,是否与辽东的濊族有着种族关系?……先生边笑边回答,解说十分有趣,但我听得一头雾水,完全不明白。壮族有“布壮”、“布农”、“布越”等20余种称谓,总称壮族。一般认为,壮族为古代百越部族的西甌、骆越支系的后裔,为居于广西最早的土著民族。

……黄现璠先生自文化大革命开始后,受到红卫兵的彻底批斗,图书馆的管理员职也被解除,处于在自宅被软禁的状态。先生曾回忆说,文革期间是家人养着我,换言之,因受到红卫兵的监视看管而无法外出工作,反而能在家中趋力研究壮族历史文化。然而,事实上,先生当时过着极端悲惨又苦恼的日子。先生的弟子和同道史家,许多人都在文化大革命中受到迫害。迄今为止,长年作为我的通信友以及再会友而交往的“中国心的友人”中的3~4人,文革中同样受到了红卫兵的迫害,下放到五·七干校接受工农兵再教育,能返回原学校或原工作单位的受害者人最早也要4年,晚则8年。由于改造地生活待遇的极端恶劣或下放当地后受到审查拷问严刑逼供,我的3位朋友未能回来,命归黄泉。这些朋友都是人格上非常伟大的中国人。

我从未见过面的中国人广为赞誉的著名文化人赵树理、周信芳、盖叫天、潘天寿、刘元陶、朱阳等人,虽然未在下放干校和接受再教育地被迫害致死,但在城市红卫兵的横行霸道以及所谓专案审查组不断审查逼供强加罪名的过程中,被慢慢折磨而死。

……我等日本长驻上海的海外驻在员长年累月费尽九牛二虎之力在中国筑起的广泛人脉关系,包括与上海党内实力少壮官僚建立的人缘关系,皆在这场文化大革命中被红卫兵发动的总攻击完全摧毁。小生、史家黄现璠先生和作家巴金先生等人于文化大革命中被罗织的罪状,至到1975年后渐渐开始恢复名誉,这无疑是他们的弟子不断向共产党上层组织申诉和活动的结果。

1979年,黄现璠先生得以完全平反昭雪,我有幸与他第三次见面,那是在1980年3月日本国驻广州领事馆开设之时,我抽空到了南宁,拜会黄现璠先生,见到了他及其弟子O氏。这次见面离先生逝世仅隔两年,我为在先生逝世前两年得见他一面而感到万幸。当然,这次见面我同样带给了他来自宫崎市定先生的问候信。小生自认为既是宫崎市定先生的弟子,同时还是黄现璠的弟子,原想成为一名国际性日本人史家,不料最终研究成果为零,完全成了一个史学门外汉。于此恳望天堂中的两位老师,容许头脑简单不学无术的小生能以行动力优良而自称为两位先生的门生。(笑)


附日语原文(节选)

私は大陸に入る時に、陸軍の高嶋辰彦少将、海軍からは保科善四郎さん、福田良三中将、それに福留守さんから紹介受けた、森徳治少将、金子繁治少将の中国友人への親書をもって入りました。また水交会の山梨勝之進さんの、○○宛様(名前言えば知る人は知る)の紹介状を持っていました。

また軍人関係以外では、宮崎市定先生からも紹介状もちゃんと頂きました。

これは私が、宮崎教室で、宮崎先生に古代中国の周民族(まあ、漢民族の原型と言っても宜しいでしょうか?)司馬遷の史記にある中華の外枠区域の、粤(えつ)、滇(てん)、氐(てい)、羌(きょう)、閩(びん)、越(えつ)の国、現在で言えば、中国の青海省、四川省、貴州省、雲南省、広東省、福建省、広西壮族自治区、台湾島、海南島での、中華別南蛮民族の歴史について質問したこと先生が覚えておられたのでしょう。

『史記』の「五帝本紀」にある、三苗?九苗?百越の追放地、天下の暴れ者、共工の土地です。本当は湖南省?江西省?浙江省の楚も入れたかった、なぜならば楚王自身が「ワレ自身、蛮夷の末、周の封候にあらず、楚の王である」と鼎の比重を問うた。

だが一方『史記』「楚世家」は、「楚は、顓頊(せんぎょく、黄帝の孫)家系の6代目の季連を始祖としている、この宮崎教室に南昌から台湾に逃げてきた国府のY君が留学生としていたから、屈原さんのご子孫、とても南蛮魁夷とは言えんかった。

宮崎先生、笑いながら、「そんなことは、この日本ではサッパリわからん??君が中国に行く時によき師を紹介すると、あん時、今、有名なる長江文明なんて、日本でゆう高天原程度、否、豊葦原瑞穂の国ぐらいだったからな。

先生の紹介先は、黄現璠氏-著名なる中国人史家である、広西大学で教鞭を執り、主として魏晋南北朝史、隋唐五代史、中国文化史ら主に中国古代史を専門とされ、特に南方の少数民族の研究の権威であられる。都市の民衆生活、都市民の徴兵?徴税ら宮崎先生ともその研究ジャンルは合っている。

私、中国史ど素人ながら、歴史に興味がある以上、当然ながら1960年代、中国でとても著名だった黄現璠氏の名前は知っていました。だが、北京師範大学研究院の史料編纂員を経て、日中戦前に来日し東大に留学した、黄現璠先生は、白鳥庫吉氏、津田左右吉氏、原田淑人氏ら系統の東大閥。一方、宮崎市定先生は、内藤湖南?桑原隲蔵?羽田亨に連なる京大閥である。両者の接点はないと思うていた。だが、これは巷に流布する、面白ガセの「東大ー京大対立説」。学問の世界は、そんなわれわれ下司が考える、ツマランもんではなく、高尚で奥が深いもの。宮崎先生は、黄現璠先生とどこでいつ懇意となられたか言われなかったが、こんな愚弟子を、あの高名に紹介する、大恥を寛容してくれると踏んでる、世間には、学会には知られていないが、両人はよほど親しいのであろう。ま、この軽率男が想像するに。

上海事変で先生が応召され、翌年に京大に戻られた、その2年後に黄現璠氏が東大に留学し2年間の研究の末に中国に帰り、国立広西大学の史学講師となり、中国通史を教えられるが、いずれもこの2年間に、宮崎先生と黄現璠氏はどこかで会われてると推察する。

宮崎先生は、この時期に「古代支那賦税制度」「支那城郭の起源異説」を発表「遊侠に於いて」にて、中国古代における都市国家をテーマにした大作を発表の少壮気鋭の中国史家である。一方に少壮気鋭は黄現璠氏もそうである。中国の上古代史、都市国家の軍制研究が専門である、両者がどこかで会わぬ手はない。両先生、戦後の付き合いではない戦前からの知人であると思う。

宮崎市定先生より63年9月の岡崎(岡崎嘉平)訪中団の時に頂いた紹介状はとても使えなかった、そんなとても、「ちょっと用事を思い出しましたから、寄り道して帰国しますなんて、個人行動が許されぬ状況ではなかった。

それに、黄現璠先生も57年だったかな、58年だったかな、毛沢東の第一回右派攻撃に連座され、歴史学会より追放され、北京に居らず、郷里の広西壮族自治区の南寧の市図書館、いや広西大学図書館だったかな、この図書館の一管理員として逼塞状態であった。それでも先生は一人でコツコツと少数民族、チワン族の民族、歴史、文化を研究されていた。

この3ケ月の12月に上海で日本工業品見本品が開かれた時に、このお手伝いに1週間ほどかな。アカン、当事の日記が、紅衛兵騒ぎにヤラれてしもうたから、記憶だ何日かはっきりせん。ただ、日本への帰途、連れの先輩のAさんと2人で、香港に入る時に、広州で一行(残る3人は、広州と香港で4日ほど休養)らと別れ、雷州半島の湛江から十万大山脈を越して、ヨウ川(右川)沿いのチワン族(広西壮族自治区)の南寧に入ったよ。

旅は少しの心配はしていなかったよ、中学?高校の頃のリュックと寝袋担いでの無銭放浪旅、無住神社境内での一泊はお手のもの、山芋探しも結構にうまいんですよ。勿論、畑のスイカ、大根の盗み食い悪友とどれくらいやったかわからん。さらに香港勤務時代に新界地区の錦田(カムティン)、上水(シャンスイ)、勒馬州(ロクマチョウ)、元郎(ユワンラン)らの国境地域は二人旅ではあるが、よく出かけていた。異国のアチコチ巡りは慣れていた。だから、あの九竜城に入れたの日本人では珍しき貴重経験。

国内、香港で2年半に渡り懸命に勉強した、中国語はカタコト会話ならできた、だが、ヒャリングの方はまだ全然駄目だったが、連れの先輩のAさん(私より4歳上香港のアジア研勤務)が、中国語堪能だったからね、南寧について、南寧飯店に宿をとると、すぐ寝るたが明くる日に、私は黄現璠先生のところへ、Aさんはベトナム国境の徳天滝に出かけた。

黄現璠先生とは、電話で宮崎先生の名前を告げてアポイントをとりました。私の発音悪き中国語が伝わるか心配でしたが。「おーお、宮崎先生ですかお懐かしい。」との流暢なる日本語が返ってきて一変に不安が飛びました。宮崎先生は黄現璠氏はとても日本語がうまいと聞いておりましたが、それは戦前の日本留学時代と思うていましたが。それは私の杞憂であることがすぐにわかりました。

広西学校での会話はすべて日本語です。53年、54年に中国を訪れた、日本の国会議員と中国外交部(陳毅と池田さまかな?)との通訳をやったことある。盧溝橋で帰国以後の日本語練習はしてきたと笑われるほど、上手な日本語でありました。

日本に留学されておられる、また、戦後も日本の史家との研究文通もされておられる、そして中国史学論壇で右派の巨魁として弾劾され追放された先生、当然に勿論、親日派である。

宮崎先生の紹介状には、日中友好のために派遣されし若者、宜しく親日中国人の人脈の紹介を頼むとありました。そして、これが先生のユーモアなのか、日本での諺、「出来の悪い子供はど可愛いい、最も出来の悪い弟子。可愛い子供には旅をさせよ」とありました。(笑)。

黄現璠は、自分は、党の処分(学会の右派)を受け、いわばこの地(広西自治区とその周辺省)でしか活動できない、軽い軟禁状態を告げられ、先生のお弟子さんであるのか?知人であるかか秘密だが、多くの有識人(史学ばかりではないとの意味である)を紹介していただきました。○○大学のM氏、○○大学のS氏、○○大学のH氏、○○大学のS氏などです。今もなお、私と親しくお付き合いさせて頂いております終生の私の友垣共であります。

黄現璠先生にはその後に二度お会した。翌々年に休暇を利用して桂林、大理を旅行した時に、南寧に寄った。北京、上海での多くの有識の方々をご紹介いただいた御礼です。

前回の初対面の時は、実は、徳天滝見物に出かけた先輩が翌日の夜にホテルに戻るとのことでしたから、この日は図書館に出かけ先生のご研究の壮族(チワン族)の歴史?文化のお話を聞くつもりでしたが、その夜遅くにホテルに戻ってきた先輩が。

二度目にお会した時は、前回に見過ごした名所旧跡は見学しました、なんとかとの鍾乳洞や地底洞窟も行きましたよ、勿論、先生のお弟子さんや、宮崎先生のお手紙も届けましたよ、先生は追放の身だから、学会のお弟子さんら、先生のお立場考えられ面会は遠慮してる、勿論、外国人旅行客、気安く「おたより」の運び役やりましたよ。そして、今度も、先生のライフワークの壮族文化、歴史の話をお聞きしました。

歴史掲示板ではなく、政治掲示板ですから、その詳しい説明は省きます??先に進みたいから。また、機会がありましたら詳しく書きます??ただ、一つ先生からご注文を受けました、これは私、宮崎先生からも叱られたことなんですが。歴史を学ぶ者は、伝承の研究と空想の堺目はくっきりとつけるべきだと。どうも私の歴史は、ロマンのあまりSFの領域に入るらしい(笑)。

…と、ゆうこと、以前に京都で宮崎市定先生に質問したこと、黄現璠先生にも問うた、広西の壮族(チワン族)は、春秋や史記らにある、遼東の濊(ワイ)族とその種族関係があるのですか?さすがの私でも、ど素人史家の分際で、中国少数民族研究の権威に、その生活習慣がいくら似とるとはいえ、チワン族と倭(弥生)族の同種説は聞けんかった。せいぜいチワンとワイまでや。

先生、笑いながら、話としては面白いが、私にもまるでわからない、と答えられた。

壮族には、「布壮」「布儂」「布越」といった20余りの呼称があるが、総じて壮族と呼ばれている。チワン族は、古代の百越部族の西甌と駱越支系の後裔で、広西に最も早く(史記のできる漢代)字、居住していた民族であるとされている。

だが、想像もここまでであり、殷周時代や五帝夏王朝まで遡られると、史家の頭では空想もできないと笑われた。宮崎先生もそうであるが、歴史の大斗と呼ばれし傑物、私はとても大尊敬する。

黄現璠先生は文化大革命が始まると、紅衛兵から徹底的なる弾劾を受けてその図書館の管理員の職まで解かれ、自宅で軟禁状態??先生は、家族が私を食べさせてくれた。つまり外で働くこともできない紅衛兵の監視下にあり。だから一番にチワン族の研究にうちむけることができた。と述懐されるが。実際は悲惨にして苦悩の時代を過ごされた。

先生の弟子、同志の史家も軒なみこの文化大革命でやられた。私が今、長年の文通再会友としてお付き合いしてる「中国心の友人」3人~4人も文革中に、紅衛兵のガキ共の糾弾を受けて、地方に飛ばされ、「革命実習教育」を受けさせられた。最も早く学校に、元所属先に帰れたは4年、長い人は8年かかっている。

酷使され劣悪環境のためか、あるいは現地で拷問処刑されたかわからないが、3人の知人が帰ってこない。人格的にとっても立派な人たちだった。

私は一度も面識ないが、中国が誇る著名なる学者、趙樹理、周信芳、蓋叫天、潘天寿、劉元陶、朱陽は、追放先、教育先での死でなく、都市での紅衛兵狼藉の最中に、人民裁判、三角帽子の過程で、その暴行により殺害されとる。…私ら、上海駐在員の懸命なる人脈つくりで築いた、壮年・若手の上海党組織官僚群も、この文化革命の紅衛兵の総攻撃により壊滅した

…だから、小生、史家の黄現璠先生や作家の巴金先生らの文化革命罪状からの名誉回復、75年以降開始されるが、彼らのお弟子さんらと共に共産党党組織に懸命に運動したよ。

79年に黄現璠先生が名実共に名誉回復され、3回目にお弟子のO氏と共に80年2月に共産党十一期五中全会で劉少奇の名誉回復され3月に在広州日本国総領事館開設されし時に南寧に入り3回目のご対面をさして頂いた。

先生のお亡くなりになられる2年前、まにあって本当によかったよ。勿論、ご生存ご元気シャクシャクの宮崎先生のお手紙持参でね。そう小生、宮崎先生の弟子であり黄現璠先生の弟子でもある、國際的日本人史家のつもりや、実績ゼロのど素人衆であることは間違いない??けど両先生とも、アタマは最高に悪いが、その行動力により門下生と称することお許しいただいたからの(笑)。

日文资料来源:日本文化チャンネル桜 - 掲示板。连接:http://nf.ch-sakura.jp/modules/n ... r=ASC&start=490


人物简介

宫崎市定(1901年8月20日~1995年5月24日),日本东洋史学家,战后日本“京都学派”导师,20世纪日本东洋史学第二代巨擘之一。

宫崎市定先生

宫崎市定的正确日语名为“宮﨑市定”,由于“﨑”在日文印刷中十分不便,因而多以“崎”字代之。他生于日本长野县下水内郡秋津村(2009年改为饭山市)静间。早年毕业于秋津小学校和县立饭山中学校(即长野县饭山北高等学校的前身)。1919年入新开设松本高校(现在的信州大学)文科一类学习,同校的晚辈生有后来的著名东洋史学家曽我部静雄和仁井田陞。1922年进入京都帝国大学文学部史学科学习,师从内藤湖南、桑原隲蔵、羽田亨、狩野直喜等人专攻东洋史。

1932年“一·二八”事变发生后,宫崎市定应召入伍,任军马厂厂长。1933年退伍回国,返回京大。1936年2月赴法国留学,入巴黎东方语学校学习阿拉伯语。1938经美国回国。1944年5月任京都帝国大学文学部教授。1958年以《九品官人法研究·科举前史》获日本学士院赏。1960年10月赴法国任巴黎大学客座教授,后回国。不久又赴美国,任哈佛大学客座教授,1962年7月回国。1965年于京都大学退休后任京大名誉教授,同时兼任德国汉堡大学和鲁尔大学客座教授。1978年获法兰西学士院颁发的“ジュリアン赏”,1989年获日本政府颁发的“文化功劳者”奖章。曾获日本从三位勋二等旭日重光章。

宫崎市定对中国学的很多领域,包括社会结构、政治体制、经济形态、权力关系、政府组织等方面均有独到的研究。中国文化大革命开始之前,尽管当时宫崎市定在中国史学界被定为“反动史学家”,但在1963~1965年依然内部出版了《宮崎市定论文选集》两卷,作为党内高级干部和史学专家的参考读物,可见其东洋史学研究的成果的影响力之一貌。而在日本和国际汉学界,他的著述被广为阅读和频繁引用。司马辽太郎、谷沢永一、向井敏、松本清张、米长邦雄等史学界之外的著名日本作家,都是宫崎市定的书迷。而他执笔的面对一般读者的史学概论书,在日本广为畅销。他的生前著述全部结集为《宮崎市定全集》(全24卷,别册1卷,共25卷,岩波书店、1991 - 1994年版)

资料来源:摘译自维基百科日语版“宫崎市定”词条


黄现璠(1899.年11月13日~1982年1月18日),中国现代著名历史学家,民族学家,人类学家,民俗学家,教育家,中国现代历史学界“无奴学派”开创者,中国现代民族学奠基人之一,中国第一个民族学派“八桂学派”的创始人,壮族史学奠基人。

黄现璠先生

原名甘锦英,广西扶绥县人,壮族。早年在北京师范大学攻读史学9年(1926 ~1935),毕业后赴日本留学于东京帝国大大学院,深造东洋史。1937年回国后,历任广西大学、中山大学、国立桂林师范学院、广西师范学院(现广西师范大学)等大学史学教授,为壮族首位大学教授,终身讲授史学。1949中华人民共和国成立后,被中央人民政府政务院相继任命为中央民族访问团广西分团副团长、中央对外文化联络委员会委员、“广西少数民族社会历史调查组”副组长;并先后当选为第一届全国人大代表、全国人大民族委员会委员、第一届中国人民对外文化协会理事。1957年反右运动中,受到批判,1958年2月1日,第一届全国人民代表大会第五次会议做出决议:“罢免费孝通、黄现璠、欧百川全国人民代表大会民族委员会委员职务”,因此被错划为中国历史学界头号大右派。1979年平反后,先后兼任第一届中国民族学研究会(后改名为中国民族学学会)顾问、《中国大百科全书•民族》编辑委员会委员、第一届中国西南民族研究学会顾问、第一届中国百越民族史研究会副会长、第五届全国政协委员。1982年病逝于桂林。黄现璠对中国史学的重要贡献主要表现在几个方面:一、1932-1934年出版的黄现璠主撰《中国通史纲要》(三卷,合著),为20世纪冠名《中国通史》的第一部通史巨著,达百万馀言,开拓意义斐然。二、1936年出版的黄现璠著 《唐代社会概略》,为20世纪第一部关于唐代社会史研究的专著,多次再版重印。三、1936年出版的黄现璠著《宋代太学生救国运动》,为20世纪第一部关于学生运动的专著,多次再版重印。四、1957年出版的黄现璠著《广西僮族简史》,为壮族有史以来第一部论述壮族历史文化的专著,从而被史学界称为壮史之父。五、1981年黄现璠推出的《中国历史没有奴隶社会》,为20世纪第一部论证中国历史没有经历过奴隶社会的专著,勇于向以郭沫若为代表的中国马克思主义史学发起了挑战,从而开拓出中国历史学界的“无奴学派”,故被学术界尊奉为“无奴学派”导师。六、1988年出版的黄现璠遗著《壮族通史》,为中华民族史上第一部壮族通史。七、在古史研究上,黄现璠是最早突破王国维的二重证据法而建立“三重证据法”的学者之一,从而形成“黄氏三重证据法”(指黄现璠将文献史料、考古史料、口述史料三者结合起来的治史法),这对中国史学研究证据法的突破意义重大。

资料来源:摘译自英文版《Chinese Anthropologists: Huang Xianfan》(《中国人类学家:黄现璠》),Books LLC,31 May 2010)


译者小考

1.作者于文中所言:“黃现璠先生属白鸟库吉、津田左右吉、原田淑人等学系的东大学阀一路……而宮崎市定先生则属内藤湖南、桑原隲藏、羽田亨学系的京大(京都大学简称)学阀一路……。”当属实情。这从甘文杰撰《东洋史学与“东京文献学派”初探——兼论黄现璠与这一学派的学术关系 》长篇论文以及《黃現璠教授誕辰百年紀念文集》所收“黄现璠自传”墨迹中可资佐证。

2.作者于文中所言“我原以为两者没有学术接点”,当属误识。原因在于:宫崎市定曾自称,自己的史学“最先从研究宋代开始”,而宋史一直他从事东洋史研究的重点。而1936年出版的黃现璠著《宋代太学生之救国运动》,则已被已被公认为20世纪中国学运史研究的开山之作和宋史研究早期代表作,初版后不断被再版重印。这就是宫崎先生与黄现璠先生早期的学术接点以及此后长期相互进行学术交流的契合之处。至于两位学术大家是否见过面,笔者同意文中作者的推测:“在黃现璠先生留日这两年间,宮崎市定先生与黃现璠先生必定在何处见过面……两位先生绝非相识于战后,而是在战前成为学友。”因而在此基础上,始有了文中所言黃现璠先生“战后又不断与日本史学家进行学术通信”的事实,这从1957年反右运动中大批右派黃现璠的文章中可资佐证。

3.文中所记黃现璠被错划右派后降为“广西大学图书馆的管理员”,当为记忆有误。这情有可原。就连中国宋史专家虞云国教授在近期发表的《中国古代学运的极盛时代》中介绍黃现璠时也将他1979年的任职单位误作“广西大学”(见虞云国:《中国古代学运的极盛时代》,《东方早报》2010年5月16日网络版),更别说一位日本人回忆40年前的事时难免有误了。

4.作者于文中称黃现璠先生是“亲日派”,笔者译为“属中国学术界的亲日派分子”,自认为更为妥当。原因在于:对日本东洋史学(中国学者称其为中国史)界而言,留日的黃现璠先生与他的日本导师和志同道合学友长期交往密切,自然属中国学术界的亲日派分子。而对日本军国分子而言,黃现璠先生当属坚定的抗日和反日分子,这从1937年黃现璠先生归国后发表的大量“抗日”文章中斑斑可考。


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文中说:……我原以为两者没有学术接点,这种认识源于受到日本巷间广为流传的充满逸话的“东大与京大对立说”的影响……实际上,学问世界绝非是我等平凡人所想象的那种争权夺利分庭抗礼的下里巴人世俗世界,而属一个高尚又深奥的阳春白雪世。

这段话让人印象深刻!两者的学术接点,不仅仅是文章及小考中提到的方面,或许还有一层关系:内藤湖南、狩野直喜等京都大学的一些学人,十分重视赴中国考察,与中国学界交流,如狩野、内藤等人与文廷式、沈曾植、罗振玉、王国维等清末民初的学者有常年的学术友谊。桑原隲藏曾留学中国,他虽毕业于东京帝国大学,长年受到东大教授的影响,很少与中国学者交往,惟独对陈垣称许有加。他曾评介陈垣《元西域人华化考》说:“陈垣氏为现在支那史学者中,尤为有价值之学者也。支那虽有如柯劭之老大家,及许多之史学者,然能如陈垣氏之足惹吾人注意者,殆未之见也。”由于两人学风接近,故惺惺相惜。时人称桑原是日本的陈垣,内藤是日本的梁启超,陈垣为中国的桑原骘藏。而宫崎市定是桑原骘藏在京都大学的弟子,黄现璠是陈垣在北京师范大学的弟子。因此可以推论,宫崎市定与黄现璠的终身友谊应该缘于多重的因缘。

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