この無形遺産条約の第二条2が定義する分野は、(a)口承による伝統及び表現(無形文化遺産の伝達手段としての言語を含む)、(b)芸能、(c)社会的慣習、儀式及び祭礼行事、(d)自然及び万物に関する知識及び慣習、(e)伝統工芸技術の五つにカテゴライズされているが、これらがこれまで民俗学がもっぱら研究してきた対象と大いに重複しているのは論をまたない。詳しくは本論に譲るが、この条約の起源ともいうべき、第一の根拠となったのは、一九八九年のユネスコ総会で採択された「伝統的文化及び民間伝承の保護に関する勧告」であり、そこではまさに民間伝承(folklore)に焦点があてられていた。その後、このフォークロアは無形文化遺産(intangible cultural heritage)へと変更され、必ずしも両者は等号の関係ではないが、すでに文化財保護法のなかに無形文化に関する保護制度のあった日本や韓国とは異なり、この条約を「非物質文化遺産」と称する中国では、一九九七年に「三級学科(科学)」から「二級学科」に格上げされた民俗学が、この条約の批准をうけて莫大な資金投与のなされた国家的プロジェクトのなかに組み込まれ、その需要が著しく拡張する。多くの民俗学者が「非物質文化遺産」のリスト作成のための調査に「動員」され、そのポストも激増したが、他方で民俗学への負の影響も懸念されることとなる。その状況は日本や韓国でも同様であって、歴史的起源のはっきりしない習俗をサルベージし、復原主義的に構成せざるを得ない隘路に陥りやすく、民俗学の科学性が問われる事態も迎えている。