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黑石寺蘇民祭信仰

黑石寺蘇民祭信仰

蘇民祭信仰

『備後(びんご)風土記』の中に蘇民信仰の逸文が残されている。
 北海の武搭神(たけあきのかみ)が南海の神の娘をめとろうと旅に出、途中で日が暮れた。そこに将来兄弟二人が住んでいた。兄の蘇民(そみん)将来は大変貧しく、弟の巨旦(こたん)将来は裕福で家や倉を百余りも持っていた。武搭神は弟に一夜の宿を借りようとしたが断られ、やむなく兄の家に泊めてもらった。兄は粟の飯でもてなした。後に武搭神は八人の王子と帰る途中将来の所に寄り「かつての報いをしよう。おまえの子孫がその家にいるか」と問うと、「妻と娘がいる」と答えた。すると「茅(ち)の輪(わ)」を腰に着けることを命じた。その夜、神は蘇民の妻、娘を除いてすべてを滅ぼしてしまった。そして「私は須佐之男命(すさのおのみこと)なり、後の世に疫病あらば蘇民将来の子孫といい、腰に茅の輪をつける者は疫を免れるであろう」と申された。
 武搭神・須佐之男命・牛頭天・薬師如来は同一神仏であるという。


蘇民祭はほぼ日本全国に分布しているが特に岩手県の場合、記録保存のために国指定無形民俗文化財となっている。黒石寺の場合は蘇民将来の護符を奪い合う形態をとっており、一千年以上の歴史を持つといわれ、祭日は旧正月七日から翌日早暁にかけて古式通りに行われる。

●裸参り(夏参り・祈願祭ともいう・午後10時~)
 梵鐘の合図で、祈願者、厄年の善男善女が手に手に角燈や割竹にはさんだ浄飯米(おはんねり)を持ち、身を切る清烈な瑠璃壺川(山内川)に入り、水垢離(みずごり)をしたあと「ジャッソー、ジョヤサ」の掛け声とともに本堂、妙見堂を三巡して厄災消除・無病息災・家内安全・五穀豊穣を祈願する。



●柴燈木登り(ひたきのぼり)(午後11時半~)
[size=-1] “登り”とは庫裡から本堂に向って行列を組んで進むことで、行列の先頭は“たち切り”で二人の男が互に刀(手木)で切り結ぶ動作をしながら行列を先導する。その後に、ほら貝や太鼓、焚きつけや柴を持った人たちが続く。行列が本堂前に達すると、柴燈木(境内の山中から採られた生松木を長さ五尺に切り二ッ割にしたもの)を井桁積に三m以上の高さに二カ所に積み重ね、それに火を点け、人々はそれに昇って火の粉を浴びて身を清める。これは修験道の柴燈護摩と考えられる儀式である。
●別当登り(午前2時~)
 梵鐘の合図で寺務所に集り、手木が祓人(はらいびと)に配られ、別当(住職)と蘇民袋が守護役・祓人に守られ、ほら貝・太鼓を従えて薬師堂に登り、厄災消除、五穀豊穣の護摩を焚く。

●鬼子登り(午前4時~)
 鬼子は数え七歳の男児二人で、麻衣をつけ、木斧と小槌を持って鬼面を逆さに背負い、大人に背負われて松たいまつや葦たいまつと共に行列を組んで本堂に入る。鬼子が本堂に入った後、本堂外陣に護摩台が出され、別当がその上でと曼荼羅米(まんだらまい)十二支の形に作った餅をまく。次に本堂内から火のついた松たいまつが二把持ち出され、護摩台の上で合わされる。鬼子を背負った人がその火の囲りを三回まわりながら火の上を飛び越し本堂に戻る。
●蘇民袋争奪戦(午前5時~)
 鬼子が本堂に戻ると、袋出しと呼ばれる男たち五、六人が蘇民袋を抱きかかえるようにして外陣に出、争奪戦が始まる。
 蘇民袋の中には、小間木と呼ばれる、疫病の護符は将軍木(かつのき)を削って六方形とし、「蘇民将来子孫門戸☆」の九文字が書かれ、寸角に切ったものが入れられている。蘇民袋も祈願者が一日で紡いだものである。
 やがて、小刀で袋が裂かれ、中の小間木がこぼれ落ちる。
 集った善男、善女はその小間木を拾ってお守りとするが、裸の男たちはさらに空になった袋の争奪戦をくり広げ、境内の外になだれ出、明け方まで2時間余りも激しい取り合いを続ける。
 最終的には袋の首の部分を握っていたものが取主(とりぬし)となって争奪戦は終了する。
 境内を出た集団が東に向かうか、西に向かうか、どちらの集団が凱歌を上げるかによって、その年どちらの土地が豊作になるかが決まるという占いの要素も持っている。



来源: http://kokusekiji.e-tera.jp/sominsai.html


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从泼寒胡戏到苏民祭:不仅仅是裸男


作者:吴真 | 中国民俗学网   发布日期:2010-03-03



  



  若干年前,我在四季只有一个夏天的广州写作《唐诗地图》,读至关于唐人流行“泼寒胡戏”的诸多文字记载,万万不能想像,在万物肃杀的冬天,人们如何以裸体跳足、挥水投泥为乐?
  那时候的长安当然比现在冷得多,从西域传入的泼寒胡戏却有如此魅力让人赤条条游戏于天地间,放豪歌,作狂舞,腾逐喧噪。从唐高宗、武则天至唐玄宗的几朝天子几个时代,都被这种野蛮刺激的身体极限体验给“魇”住了,一到冬天就组织群众在长安城门楼前表演泼寒胡戏。唐时宰相张说,有次陪同玄宗观看泼寒胡戏之后,诗情也被点燃,回家一口气作了五首《苏幕遮》歌辞,重现“腊月凝阴积帝台,豪歌急鼓送寒来”的激情场面。这些《苏幕遮》歌辞还有曲调配合,是专门为泼寒胡戏伴奏的胡乐,节奏铿锵气势雄浑,与丝竹为主的中原音乐大异。多年以后,当胡戏舞姿早被中原人遗忘时,为泼寒胡戏伴奏的词牌曲调《苏幕遮》却留存在宋词中,只是少了西北风的野蛮,沾上了范仲淹们“碧云天,黄叶地”的惆怅。
  大凡外来的文化形态总是以一种冲击耳目的极端体验出现的,好莱坞电影大片如斯,泼寒胡戏更如斯。《旧唐书》记载好几次大臣冒死上谏,要求禁断民间泼寒胡戏,最后连爱好舞蹈与戏剧的玄宗也不得不下令叫停。其实唐代的华风已经被“胡风”浸泡得不分彼此了,要不唐诗中也不会充斥着胡服、胡帐、胡床、胡姬、胡饭、胡笛、胡琴、胡舞等等“胡”字。然而泼寒胡戏的“裸”与“群”,恰恰刺激了儒家文明的某条神经。唐开元年间之后,泼寒胡戏于是渐渐淡出中原的冬天,幻作唐代文明那片黄金纱上的一抹腥红朱砂,隐喻着那个时代的身体狂欢。
  因为泼寒胡戏的这点文字因缘,今年1月初当我夹杂在全世界涌来的游客之中,观看日本东北部岩手县男人光屁股的“苏民祭”时,恍然以为穿越到了中国盛唐。
  整个正月,岩手县的各大寺庙与神社此起彼伏地举行苏民祭,一群群裸男只着一丁字裤(就是相扑手所穿的那种),在冰天雪地里做生龙活虎状,跳到冰水里、在雪地里拥抢吉祥物、喝酒挥棍、泼水吆喝,顺便向神佛祈祷去病消灾。岩手县黑石寺旧历正月初七闹一宿的苏民祭最有名,比其它地方更为赤条条来去无牵挂,一物不着,前些年经媒体宣传后,全世界猎奇之人尤其是同性恋者云集。当局觉得这样闹大了也有“深玷和风”之嫌,2007年开始要求参拜者至少要穿条意思意思的丁字裤,越是如此,观光客热情越不减,平常三分之一都坐不满的东北线新干线火车,在正月上座率居然能够提升到坐满。
  那天岩手县毛越寺苏民祭在气温只有零下几摄氏度的晚上进行,我用羽绒服、暖包、帽子等一身武装起来。当50个缠着兜裆布的男子像阅兵式的坦克一样,从我们这些全身御寒的观光客旁边呼啸而过时,男人的阳刚以及赤身对抗严寒的凛烈之气,一下就让人觉得这身“文明的外衣”很多余。
  日本偶像剧教母柴门文曾经因为观看了黑石寺苏民祭上的裸男,而产生了冲动写作畅销书《日本入门》,向天下昭示“男人们会在祭典上裸着身体露出屁股的文明国家,应该只有日本了”。以一个中年欧巴桑的眼光,柴门氏感叹道:“浮现在暗夜中的男子裸体很美!”——她看的是黑石寺那个集中了全日本最性感男人屁股的相当“观光化”的“苏民祭秀”,我看的这一场,把它解释为中年男人用不再紧致性感的身体向神灵俯首参拜,可能更接近苏民祭的本意。
  毛越寺苏民祭参加者必须是42岁的男子,因为日本民间信仰认为男人的一生会经历三大厄:25、42、61岁,其中42岁是大厄,诸事不利。在这样人生重大关口,非借助于神力无以平安度过。毛越寺正月廿十日夜祭这一晚,厄男们以一个赤裸的身子供奉给摩多罗神,这样的“裸参”其实蕴含着宗教意味,即以身体的苦行来换取神灵的庇佑,苦行僧、苦头陀的生存意义即在于此。为了凸现苦行的体验,才需要在最是寒冷的正月进行祭祀,才有严寒的冬夜裸身厄男在雪地中参拜数小时的祭祀。
  晚上8时,厄男游行队伍始发于火车站前,一路踩着鼓点,吆喝着身体健康风调雨顺家口平安之类的祝语,沿途人们不断向他们洒酒、劝酒、欢呼。厄男们手持燃烧着的“松明”(约2米高、直径有半米粗的柴火束),置于腰盘间,一路不断做竖起挥舞状,仿佛这长长的物事长自他们身上似的,不免让人联想起原始部落的男根生殖崇拜。闹着闹着不觉来到夜祭的中心——毛越寺常住堂,此时厄男们将松明投入堂前的火堆中,象征今年所有厄运一烧而尽,然后鱼贯而入常住堂,在主神摩多罗神前行礼祈祷。有能力强的厄男一跃而上佛殿大梁,在梁上比划着阳刚之气的动作,夸耀其势,观者起哄声、赞叹声四起。
  厄男在佛前许愿之后,他们一天的功德总算在神灵的见证下,获得圆满。这时已经是深夜,在零下几摄氏度的低温下,光着几小时屁股前来除厄运,不看僧面看佛面,不看佛面也得看裸尻,大概厄男们的愿望是会达成的吧。
  苏民祭的裸参、厄男、生殖崇拜意味强烈的松明,这大概就是日本文化赤裸的一面。当然如果你愿意联想到日本AV片的高产、男女同泡的温泉乃至日本男性文化“自我唯尊”的自大,大概也不过分,但是请不要仅仅看到人家的屁股便作情色变态观。
  日本研究民间信仰的学者自豪地说,因为汉人没有裸体祭的习俗,所以苏民裸体祭成了日本特有的产物。几年前苏民祭还成为日本国家无形文化财(概念相当于当下中国最火的“非物质文化遗产”),如果日本又像韩国向联合国申报端午节为世界非遗那样,也让苏民祭“申遗”一把,中国肯定又会有学者站出来维持“中国发端说”。不要单怨人家把咱们唐代的泼寒胡戏抢过去当做自家宝贝,还是要想想,每年日本全国有288个地方的成千上万男人在冰天雪地中向神灵献出赤裸的身体,这个民族的身体观念与精神世界,在日本遣唐使将唐代文明输入东瀛之后,到底与中国有了怎样的分叉?

(本文刊于《南方都市报》2010年3月2日)



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厄男 裸参 苏民祭
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  文章来源:民俗学博客-爪哇堂 2010-03-03 10:13:36

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